読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

古戦場めぐり「戊辰戦争・大田原城の戦い(栃木県大田原市)」

古戦場めぐり「戊辰戦争大田原城の戦い(栃木県大田原市)」

◎『戊辰戦争大田原城の戦い』

大田原城の戦い」は戊辰戦争の一つで、慶応4年(1868) 5月2日に行われた新政府軍と会津・旧幕府連合軍との戦いです。

慶応4年(1868) 4月22日の板室宿の戦いが行われた日に、大田原城に新政府軍の伊地知率いる後続隊が到着します。数日前に世良修蔵が暗殺され、白河城会津・仙台両藩兵に占領されたとの一報が入ったのは20日なので、これを知って白河城奪回のための兵を率いて宇都宮城を出発、大田原城に到着したのがこの日だと思われます。

4月25日、関谷宿での掃討戦の勝利した伊地知は、いよいよ白河城(福島県白河市)の奪回戦に着手することを決断します。この日に一度目の攻撃を仕掛けますが、兵力不足と準備不足からこの攻撃は失敗します。このために伊地知は宇都宮城から連れてきた全東山道軍を率いて、5月1日に再度攻撃を開始し、見事白河城の奪回に成功します。しかしこの攻撃のために、大田原城にいた東山道軍の兵士を全て白河城に向かわせてしまい、応援に来ていた黒羽藩兵と大田原藩兵も白河城攻撃の兵站確保のために、大田原城白河城間の鍋掛宿や芦野宿に出兵させてしまったので、大田原城の守りは手薄になっていました。翌2日、その大田原城が手薄になった間隙を突いて、会津・旧幕府連合軍(会幕連合軍)が大田原城に攻めてきました。板室宿の敗戦後、三斗小屋宿に退却してした会幕連合軍でしたが、会津藩からの援軍がきたこともあり、再度、大田原城攻撃を決意しました。前日に三斗小屋宿を出発し、前回同様に難路の会津中街道の山道を降り板室宿に到着、那珂川を渡河して百村で宿陣します。翌日、雨の中、会幕連合軍は二手に分かれて\xB9

垠海魍ʍ呂靴泙靴拭B莪貘臑皺鹽径發峋云騨竸絮茲い某覆漾⊄臈銚尭擦暴个禿貘Δ茲蠡臈銚蕎襪悗旅況發鯡椹悗靴泙后2馗堵擁柴鹵翅發蕕楼貪抓愧ʢ匹貌類蝓△修海ǂ蘰賓烤務稿擦暴个導稿傘茲い貌鄲Δǂ藺臈銚蕎襪悗旅況發鯡椹悗杭鄒錣任靴拭\xA3

2日未明に油井村に出していた警戒兵から、旧幕府軍の進軍の一報が届くと、家老大田原数馬を中心に大田原藩兵は防戦準備を始めます。しかし、兵力の少なさから大田原城を守り切れるか危ぶんだ数馬は、まだ幼年の藩主?丸(7歳)を搦手門から脱出させ、後顧の憂いがない状態にして、会幕連合軍の攻撃を迎え撃つ準備をしました。こうして防戦準備を整えた大田原藩に対して、会幕連合軍は攻撃を開始します。大田原藩兵の第一防御ラインは石林村に布かれていたものの、会幕連合軍第一大隊は鎧袖一触でこれを破り、大田原道を進み一気に大田原城の城下町に突入します。城下町東端の経塚木戸付近に大田原藩兵は土塁を築いて、会幕連合軍の攻撃を迎え撃ちます。しかし、幾ら土塁が在っても火縄銃装備の大田原藩兵では、火力も兵数も会幕連合軍に劣り劣勢に追い込まれます。それでも昼過ぎまでは戦線は保っていましたが、城を目指して撤退します。同じ頃には、城下町南方の戦線も会津藩兵の攻撃により崩れ始め、こちらの守備兵も城目指して撤退します。なお、大田原藩兵は城内に撤退する際、「時の鐘」と呼ばれる鐘を打ち鳴らしたので、町民達は会幕連合軍が殺

到する前に避難することができて、人的な損害は少なかったといいます。かくして、大田原藩兵は城内に後退し防戦を開始、大田原藩兵は総出で大田原城の防衛戦に当たります。しかし大田原藩兵が城内に退却したことにより、会幕連合軍も大田原城で合流できて、会幕連合軍の方が大田原藩兵を三倍近く兵数で上回っていました。会幕連合軍は三の丸と西の丸も攻め落とし、坂下門に殺到します。大田原藩兵は、関ヶ原の戦いの際に徳川家康から与えられた「権現筒」と呼ばれる大筒まで持ち出して防戦を続行し、会幕連合軍に犠牲を強います。大田原城の落城も間近と思われた夕方、突如城内の作事小屋が轟音を立てて爆発します。これは白河城の戦いに備えて、作事小屋に集めておいた火薬類が、会幕連合軍が火を放ったために引火したからでした。二の丸内に攻め込み、大田原城を落城寸前まで追い詰めていた会幕連合軍でしたが、この作事小屋の爆発の頃になると、これ以上攻撃を続けて大田原城を奪取しても、損害の多さから大田原城を保つことができなくなると判断して、大田原城から撤退を開始しました。かくして大田原城攻防戦は、攻撃側は大田原城の攻略を諦めて撤退し、防御\xC2

Δ眤臈銚蕎襪了犲蕕鯆詎瓩禿餌爐垢襪箸いΑ∧蠱だ鐐荵砲任眥舛靴ぁ嵶招嚇餌燹廚箸侶詼槪箸覆蠅泙靴拭\xA3

翌3日には、撤退していた大田原藩兵が大田原城に戻り、「時の鐘」を打ち鳴らしたことにより、避難していた町民も戻ってきたので、かろうじて大田原藩は領内の支配権を失わずに済みました。そして、大田原城を攻め落とせなかった会幕連合軍は、再び三斗小屋宿に戻り、以降は二度と那須山麓から出てくることはなかったので、那須山麓戊辰戦争は終わりを告げたのです。3ヶ月後の8月には、今度は新政府軍が三斗小屋宿に攻め込むことになります。

○「大田原城跡・龍城公園」(大田原市城山)

大田原城」は、天文14年(1545)に大田原資清によって下野国大田原の蛇尾川西岸、比高約25mの龍体山に築かれました。後に町島水口より移り、以来明治4年の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城でした。東西210m、南北327m、面積9.1ha。本丸、二の丸、三の丸に区画され、この他、北・西両曲輪、馬場、作事場等、築城法にかなった防御を第一とした要塞の地です。戊辰戦争の際、大田原藩は新政府軍につき、本城は対会津攻めの重要拠点視され、慶応4年(1868)5月2日、会津旧幕府軍による攻撃を受けて、火薬庫の爆発によって三の丸が炎上しました。この時、会津藩兵が井口を通過する際に菊花紋入りの墓石を見つけ、壊して土中に埋めて行ったといいます。城は明治5年兵部省に引き渡され、取り壊されました。現在は、龍城公園として利用されています。

○「大田原護国神社」(大田原市山の手2丁目)

大田原城の戦いの奮戦で戦死した藩士および新政府軍兵の死を悼み、板垣退助木戸孝允大久保利通らによって「招魂社」が建立されました。招魂社は戊辰戦争の戦死者のうち、新政府軍側の者を祀る神社として設立され、長州下関から始まって全国に分布し、それぞれの地域で国のために戦死した者を祀っています。ちなみに、現在の靖国神社はこれら招魂社のうち東京招魂社が改名したもので、東京以外の招魂社は昭和14年の内務省令で1県1箇所を原則に護国神社と改名しました。栃木県では、宇都宮招魂社が栃木県護国神社となりましたが、激戦地であった大田原招魂社もこのとき護国神社として存続することとなりました。